以前の記事
2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 10月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 2004年 07月 2004年 06月 2004年 05月 その他のジャンル
外部リンク
リンク
記事ランキング
|
2004年 05月 19日
先週土曜日は日本ウマ科学会の「ウマ用語辞典(英和)」の完成
記念を東京競馬場観戦がてらおこなった。普段あまり競馬場にい らっしゃらない人たちなので「開催日は毎日いらっしゃるんです 課?」と、何人もの人たちに聞かれる。その都度「競馬はJRA だけではなく、全国で毎日お粉分けていて、外国でもあちこちで 行われているんですよ」と答える。「ウマ用語辞典」はウマ科学 会に入っていただければ無料で配布されますので、もしご希望の 方はこの機会にご入会ください。ウマ科学会のホームページはJ RA関係のリンクからどうぞ・・・ 今週は大井競馬に通うことになる。21日は東京プリンセス賞。 22日はキスミートゥナイトが自己条件での出走で勝ち負けに なりそう。23日はストロベリーリーブが少し良くなっていると いう。優駿牝馬のレース後に回ることになりそう。 記事の下に広告が表示される場合があります。この広告はexciteの広告枠で、当ブログとは無関係です。 #
by yamanokoichi
| 2004-05-19 00:00
2004年 05月 17日
船橋競馬場で開かれた千葉トレーニングセールに参加した。
社台ファームが(千葉の組合長なので)11頭も出場させ、 JRAが抽選馬の配布残りを出場させていて、なかなか充実 したものとなっていた。そうも高い馬はでないが、それなり に値がついていとも健全なセリだったと思う。私も購買登録 をしていて、買いたい馬もそれなりにあったのだが、今回は 社台レースホースの馬に予算をとつておきたいとも思って、 手を出さなかった。川島調教師はパーティを用意していて、 社台のメンバーなどとともにごちそうになった。川島厩舎の マズルブラストはなんとも立派な馬に成長していた。今年の 2歳の期待馬となりそう。 記事の下に広告が表示される場合があります。この広告はexciteの広告枠で、当ブログとは無関係です。 #
by yamanokoichi
| 2004-05-17 00:00
2004年 05月 14日
JRA発行の新種牡馬名鑑ガ校了した。今年も海外新種牡馬の
クイズをしたかったが、ホームページが仮設なので、いずれマウ さんと相談してクイズのページを作成してもらい、新種牡馬名鑑 が発行される頃に別の内容のクイズを開催したいと思っています。 今週は最強未勝利馬キャピタルフライトと、カンバックのマイネル フェイカーが新潟で出走する。ともに人気となるだろうが、いずれ も実力がありながら勝ちきれない馬だけにどうだろう。 記事の下に広告が表示される場合があります。この広告はexciteの広告枠で、当ブログとは無関係です。 #
by yamanokoichi
| 2004-05-14 00:00
2004年 05月 01日
■27.nov.1939■
大阪市港区八幡屋町で3人兄弟の次男として生まれる。父厳は和泉の出身。その祖先は江戸時代に九州の山野金山から住吉村への開拓入植したそうで、その遙か祖先は藤原家から山野金山の開拓に派遣され、その時に山野姓を名乗ったという。山野姓で「丸に三つ柏」の紋章は多いけど、それらはほぼ同族だろうと思われる。父は几帳面な性格だがセンチメンタリックな面が強く、大倉商業在学中に父親を失い、7人兄弟の次男として弟妹を養うために就職したという。父は中退当時の通信簿を大事に残していたが、確かにそれは優ばかりだった。今なら東大へ入って官僚になったタイプだろう。むろん、こうした父を嫌い、ずっとそれに対する反発によって山野浩一は自己形成をしている。母静子は旧姓森村。紀州の殿様に仕えた侍の子孫で、典型的なお嬢さまだった。嫁入りの持参金として長屋を一棟持ってきたが、父が後の事業で食いつぶしている。父母は浩一が生まれてまもなく母の姉の家に近い阿倍野区昭和町に転居した。 ■1943■ 昭和町で初の米軍による空爆を経験する。最後かも知れないというので、とっておきのチョコレートを食べたが、それだけはしっかり覚えていて、今に至るまでチョコレートが大好きである。1年早く文の里幼稚園に入園したが、数日で母の親戚を頼って和歌山県紀ノ川に疎開した。疎開地でも何度も空爆を受けたが、焼夷弾の落下が花火のように美しく、丘の上で見惚れていて母に大目玉を食った。 ■1.apr.1946■ 昭和町に戻り、市立北田辺小学校に入学。筒井康隆さんはとなりの南田辺小学校にいたようだ。後には向かいに谷沢ベニヤというベニヤ板の問屋ができたが、それが谷沢永一さんの実家だった。谷沢ベニヤの若い衆とはよく遊んだが、永一さんとは今もって面識がない。 ■1.apr.1952■ 市立昭和中学校に入学。この頃は平凡な生徒だったように思う。さほどの記憶もなく、学校の成績も中ぐらいだった。 ■1.apr.1955■ 府立住吉高校に進学。当時の住吉高校は中学でクラス3番目ぐらいしか入れないようなところだったけれど、なぜか真ん中ぐらいの成績でパスした。中学へは内申書の成績があまりに悪いので問い合わせがあったそうだが、勉強をしないので成績は悪いけど、試験は通るとみていて受験させたようだった。それによって本番に強いという自覚ができて、ますます勉強をしなくなった。住吉高校は住吉中学時代から庄野潤三、坂田寛夫など多くの文学者を送り出している学校で、眉村卓さん、堺屋太一さんも先輩になるが、むろん知り合ったのはずっと後である。高校では図書委員を務めていて、この頃ヘミングウェイ、カミユ、ドストエフスキーなど多くの文学作品に接するが、特に傾倒した作家がいるわけでもなかった。高校では不良少年の一人でもあったようだ。 ■1957■ 初めて原稿料をもらったのはスポーツニッポン紙(だったと思う)の私の映画評という欄への応募によってで、ジョン・フォードの「ミスターロバーツ」の批評だった。 ■14.mar.1958■ 大阪大学を受験して落ちる。実は勉強をしなくなってから英語を習ったもので、英語に関しては文法も、基礎的な単語もほとんど知らないままここまで来てしまい、いかに本番に強いといっても、こればかりは試験場で考えてもできるはずのものではなかった。国立大学では各科の最低点制度があって、他の学科がいかにできても、一つでも20点以下の科目があると落ちる仕組みになっていた。したがって最初から阪大には通る可能性が全くなかった。2次にはもっと易しい和山大学を受験したが、当然こちらも落っこちた。 ■15.feb.1959■ 関西学院大学法学部に補欠で入学。関学は合計点で合格者を決めるし、私立では比較的科目も多いので、英語の得点が0でもなんとか入学できたようだ。数学は帰り配られる予備校による模範解答と一字一句違わなかったので間違いなく満点だったと思う。入学後すぐに映画研究部に入る。近畿圏以外からは入学できないので、関西学院は全国的に知られていないが、当時全国一の授業料の高さを誇っていたおぼっちゃん学校で、阪神競馬場のすぐ近くにあり、学生の多くは競馬好きだった。志摩直人、杉本清など競馬関係に関学出身が多いのはその2つの条件によるもので、むろん山野浩一もこの時期に競馬場へ頻繁に通うようになった。その年の宝塚記念をコダマが勝った。金持ち学校なので友人に馬主の息子も多く、この頃から馬主席で競馬を観ることも少なくなかった。1年生なので安保闘争には遅れてきた青年だった。 ■1960■ 映画研究部ではたちまちヘゲモニーを奪取し、3年生が制作する自主作品を2年生で脚本、監督する。「デルタ」という作品は20歳時の最初の重要な創作活動となった。この頃、フロイド、サルトルなど当時の学生に人気の高かった著作に接している。ゴタール、大島渚さんなどが活躍していたヌーベルヴァーグ全盛期で学生映画の全盛期でもあった。当時は学生映画の全国組織があり、そこで足立正生さんなどと知り合い、「デルタ」のテレビ放映のゲスト出演した寺山修司さんとも知り合う。この頃大学新聞や「映画評論」「映画芸術」「週間読書新聞」などにいくつかの評論を書いている。 ■1962■ 大学を中退して、関西映画というコマーシャル映画のプロダクションで1年間映画の現場での勉強をした。それなりに社会を知る機会になった。 ■1963■ 放送作家協会のシナリオ学校へ行くという名目で東京にアパートを借りて、毎日、寺山修司さんや足立正夫さんと議論をして過ごす。足立さんは日大映画研究部の卒業生を中心としたヴァン・プロダクションというところで共同生活をしていたが、そこに赤瀬川原平さん、オノ・ヨーコさんなども出入りしているとても魅力的な場所で、寺山さんもそこで最初の映画を制作していた。この頃、岩波映画で伊勢長之介さんというPR映画の名手の助監督をした。同世代の嵐山光三郎さんや唐十郎さんともよく遊んだ(議論していた)。 ■1964■ 寺山修司さんに映画なんか簡単につくれるものではないから、小説か戯曲を書いたらどうかといわれ、およそ1週間で戯曲「受付の靴下」と小説「X電車で行こう」を書き上げる。寺山さんはとても面白いといって、すぐに茨木憲さんに電話してくれたが、茨木さんも気にいってくれて「悲劇喜劇」誌に掲載されて処女作となった。小説の方は寺山さんにもコネクションがなく、これはSFというものだから、SFの同人誌に載せれば良いといい「宇宙塵」という雑誌があるそうだといわれた。そこで「宇宙塵」に送ると、柴野拓美さんに大変評価をうけて、3ヶ月に渡って掲載された。1回目の掲載で三島由紀夫さんが面白いと、柴野さんに葉書を寄せて下さったそうで、中原弓彦(小林信彦)さんが「朝日新聞」にそれを紹介し、星新一さん、石川喬司さんの推薦で「SFマガジン」に転載された。当時寺山修司さんと中原弓彦さんは篠田正浩さん監督の「乾いた湖」(寺山さんの脚本)をめぐって大喧嘩していた。後に「X電車で行こう」を単行本とする時には星新一さんと、安部公房さんの推薦文をいただいたが、デビューにあたっては当時の文化人の多数に全会一致のような支持を受けている。そしてこの華やかなデビューが後の山野浩一にずっと高みに生息することを運命づけ、大衆性を失わせる理由となったようだ。 ■1965■ 「SFマガジン」に第2作「首狩り」を送ったが、福島正実編集長には受け入れられず、しかし副編集長の森優さんはずっとこの作品を引き出しの中にしまい込んでいて、後に編集長となったときに掲載してくれた。寺山修司さんの紹介で「宇宙塵」に掲載した作品を中心とした処女短編集「X電車で行こう」を新書館から出版。山の上ホテルでの記念会は後の日本赤軍幹部としてPFLPと共闘している足立正夫さんが司会した。この席で日本中央競馬会の宇佐見恒夫さんと知り合い「優駿」に原稿を書くようになる。競馬ライターとしてのデビューは「競馬必敗法」というアイロニーだった。この頃一度目の結婚。妻小谷美贊子は学習院大学の映画研究部に所属していた。 ■1966■ 「日本読書新聞」は当時のラディカルな学生の機関紙的な存在となっていたが、そこに「SF時評」を連載するようになり、日本SFに対する批判を開始する。小説は認めてもらえなかったが、評論は福島正実さんに評価され、「日本SFの原点と指向」という評論を「SFマガジン」に掲載。これは当時ようやく形成されてきた日本のSF界に大きな波紋を呼んだ。30年も後になってもこの評論はそれなりの意味を持っていたのか、世界的なSF論客として知られるダルコ・スービンさんによって英語・中国語で世界に紹介されている。 ■1967■ 日本で最初にSFが普及したのは手塚治虫さんの「鉄腕アトム」のブームに始まるTVアニメーションの分野で、「鉄腕アトム」は常時40%台の視聴率を稼ぎ出し、当時まだ二流TV局だったフジテレビをTBS、日本テレビに次ぐ存在にのし上げていた。各テレビ局は競ってSFアニメの制作に乗り出し、ようやく本格的な創作活動を始めたばかりの第1世代SF作家のほとんどはそうしたTVアニメの原作や脚本を手がけている。硬質な作風からは最も不向きと思われる山野浩一だが、持ち前の器用さから、この分野でもかなりの売れっ子となり、手塚治虫さん原作の「ビックX」(TBS)と、自身の原作による「戦え、オスパー」(日本テレビ)の脚本の半分近くを担当した他、「鉄腕アトム」、「怪獣ブースカ」(実写)、「こがね丸」(人形劇)など、さまざまなTV作品の脚本を書きまくっている。「戦え、オスパー」のアシスタント・プロデューサーは後に「太陽に吠えろ」「傷だらけの天使」「拝啓おふくろ様」などによってNTVドラマの黄金時代を築き上げた清水欣也さんで、その後もずっと親友として交際を続けており、「季刊NW-SF」には清水欣也さんの小説が連載されてきた。この頃、少年雑誌もSFブームを迎えており、平井和正さんによる「8マン」の成功によって、原作付き劇画でもSF作家の需要が高くなって、「少年マガジン」「少年キング」などにいくつかの劇画原作を書いたが、こちらはさほど成功しなかった。長女の牧子が誕生し、富士見が丘から方南町のマンションに引っ越す。この頃はまだマンションが珍しく、一種のステータスシンボルともなっていた。 ■1968■ この頃、競馬関係では「優駿」誌に時々原稿を書く程度だったが、夕刊紙「東京スポーツ」で血統を紹介するコラムを依頼され、週一回のコラムを書くようになった。題名は「必勝馬券のつかみ方」というおぞましいもので、このタイトルでどんな内容でもかまわないといわれたので引き受けた。また、東京スポーツ社からは「競馬パズル」という単行本の依頼も受け、こちらも気軽に書き上げたが、この本はかなり売れたようだ。そのように次々と仕事っぽいことを続けていて、前衛小説の作家にしては最初からそこそこの収入には苦労していない。森優編集長になってからは「SFマガジン」にも次々と作品を書くようになり、半村良さん、新巻義雄さんとともに「SFマガジン」を支える3本柱と呼ばれるようになった。「SFマガジン」には人気カウンターという読者投票のコラムがあり、月々のベスト作品が選ばれていたが、どうにも大衆性に欠くという自覚から、何とかベストを取ろうと「マインドウインド」という平易な作品を書いたところ、やはり1位を獲得することができた。後に筒井康隆さんが「山野浩一はこういう作品を書くべきではない」と批評してくれたが、さすがというべきでしょうね。この頃「宝島」「話の特集」「月刊プレイボーイ」「流動」「黒い手帳」などさまざまな雑誌に多くの作品や評論を書いている。 ■1969■ 第2短編集「鳥はいまどこを飛ぶか」(早川SFシリーズ)が出版され、「季刊NW-SF」(実際には年に1、2回出る程度)を創刊してSFのニューウエーヴ運動を展開するようになる。「季刊NW-SF」の第1号はJ・G・バラードさんの評論「内宇宙への道はどれか」(伊藤典夫訳)が大きな話題を呼び、たちまちSF界に大きな波紋を広げることになった。「季刊NW-SF」には種村季弘さん、別役実さん、三木卓さん、中井英夫さん、塚本邦夫さん、黒井千次さん、平岡正明さん、須永朝彦さん、諏訪優さん、中村宏さん、半村良さん、河野典生さん、石川喬司さん、松岡正剛さん、佐野美津男さん、大久保そりやさん、田中隆一さんなどさまざまな分野の作家、評論家から原稿を寄せていただき、まださほど知られていなかった時代の嵐山光三郎さん、川本三郎さんなどの作品も掲載されている。また、定期的に開催されていたNW-SFワークショップに集まったメンバーや若手寄稿家には鏡明さん、荒俣宏さん、川又千秋さん、森下一仁さん、亀和田武さん、新戸正明さん、永田弘太郎さん、志賀隆夫さん、高橋良平さん、野阿梓さん、沼野充義さん、山形浩生さん、大和田始さん、野口幸雄さん、増田まもるさん、水鏡子さん、大野万紀さん、米村秀雄さん、安田均さんなど、現在の一線級作家、評論家、翻訳家が名を連ねている。編集を手がけてきた山田和子さんも翻訳と評論で大活躍し、終刊間際に山田和子さんとともに編集を担当するようになった川上弘美さんは後に芥川賞を受賞している。確かに「季刊NW-SF」は日本文学史に大きな足跡を残したといえるだろう。競馬関係では「日刊スポーツ」に「血統入門「」を連載し、後に「名馬の血統」として単行本にまとめられる。また、競馬ブック社と週刊誌の専属契約を結び、「週刊競馬ブック」でもファミリーテーブルと名馬物語の連載を始める。多忙を極めて妻とは別居生活に入る。 to be continue… 記事の下に広告が表示される場合があります。この広告はexciteの広告枠で、当ブログとは無関係です。 #
by yamanokoichi
| 2004-05-01 00:00
|
ファン申請 |
||