20代の中ごろに「戦え!オスパー」という私の原作によるアニメーション番組
をNTVで放送したが、そのときにアシスタントディレクターとして一緒に仕事を
したのが、清水さんとの出会いだった。大変な才人で、その後もずっと親友として
付き合ってきた。彼に小説を書かせてNW=SFに連載した。かなり前衛的な
小説だったので読む人はわずかだっただろうが、彼の仕事には役立っていたよ
うにも思う。清水はその後、「太陽に吠えろ」を大ヒットさせ、「傷だらけの天使」
「拝啓おふくろ様」など、いまや伝説となっている数々のドラマを送り出して、日本
テレビのドラマ黄金時代を築き上げた。ショーケン、松田優作、桃井かおり、
尾形拳など、多くの俳優を育てたのも彼で、芸能界では最も恐れられていた
プロデューサーの一人だった。
「ちょっと行き詰ったら山野さんのところへ行くんだ」と彼はいっていたが、確かに
ふらっと私のところへきて話し込んだり、本をあさったりしていた。ビートルズを
彼が最初に聞いたのも私の家で、とても感動した様子だった。ずっと、今度こそ
一緒に仕事をしたいといっていて、「X電車で行こう」を芸術祭参加ドラマとして
企画し、かなり頑張ったそうだが最終段階でだめになったといっていた。甲斐バンドの
メンバーが私のファンだからといって紹介してくれた。甲斐よしひろさんたちと食事
しているとき、私が平気で清水にずけずけというので、周囲の人たちはび゜っくりして
いたが、その頃はもう芸能界で大変な存在となっていたようだ。
工藤夕貴のプロからオーストラリアとの合作映画の話がでて、オーストラリアサイド
と話をつけてうまくいきそうだったのだが、まあ、こういう話は壊れるもので、
私もいやになってやめてしまった。それを気にしていたようで、その後は疎遠に
なってしまった。最後にあったのは私の家のホームパーティで、彼は定年退職し、
すっかり元気をなくしていた。芸能界の帝王として恐れられていただけに、力が
なくなると手のひらを返す人たちも多かったのではないだろうか。
1年前に亡くなったという。だれも知らせてくれなかったが、教えていただいた
大野さんには感謝の気持ちでいっぱいです。合掌。
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