
「季刊未来」で岡和田晃さんが紹介している樺山三英さんの「セヴンティ」は確かに貴重な作品だと思う。どのように貴重かという点では全く岡和田さんが論じている通りであるのだが、作品そのものは文芸誌で掲載を拒否されて「季刊メタポゾン」に掲載されたものという。およそ樺山さんの創作への姿勢は私の場合とかなり似通っていて、どういう作品を書くという意図とか、何かを訴えたいというつもりはなく、発想を深めていけば一つの作品として形成されていき、それが思わぬ展開を紡ぎだすというようなものだろう。当然ながら樺山さんにしても、岡和田さんにしても大江健三郎の「セヴンティーン」をめぐる当時の風評を受け止めているわけではなく、単にずっと後に活字メディアから得た情報であろう。、あるいは樺山さんの最初の発想は私の場合と同じようにダジャレから始まったのかもしれないと思うが、だからこそ、岡和田さんが論じているように現代でも有効な政治性を持てるのだろう。これは岡和田さんが「新潮」で私の「レヴォリューション」を論じているのと同じ考え方によるもので、要するに「セヴンティーン」の時代には性的人間、政治的人間というようなコンプレックスとの結びつきで突き進んだ文学の役割は、確かに「近代文学の終り」として葬られたものであろうが、システムとか、プログラミングとか、分子生物学とか、セカイというような現代におけるインテリジェンスに対しては相応に有効な理念展開が可能ということだろう。「セヴンティ」は風評としてさほどの波風を立てなくとも、これからの小説の在り方を凝縮したような傑作として秘かに読み継がれるのだろう。
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