SFというのはあまり既成文学に関心がないままシュールレアリスムとか、アンチロマンのような作品を数多く残してきたが、今も同じように思想、フィロソフィー、テーマ、シチュエイション、アプローチ、メタフィジック、文体、文章そのもの、言語そのものまでさまざまに画期的な改革を行っている。たとえば円城塔の作品はパラグラフにおける文章そのものは過去のものと変わらないのに、その関連性は断ち切られていて、それでいて作品全体では確かなシチュエイションが浮き出るようになっている。酉島伝法の作品では言葉そのものが全く違ったものなのに、センテンスではしっくりおさまっていて、作品そのものでそのような異言語が修飾とか寓意とかさまざまな表現性導き出している。宮内悠介の作品では全く継続性のない設定が次々と出現しながら、それぞれに関連性が理解されるとともに大きなテーマが浮き出てくる。樺山三英の作品ではテーマとして現出されるもの次々打ち消しながら全く書かなかったものを浮き彫りさせる。これらは日本文学として画期的なものばかりだが、日本の文学界ではほとんど関心を持たれることがなく、SF界でもそのように理解されるわけでもなく、ただ、宇宙とか、人類とか、パラレルワールドとか、エスパーのシチュエイションに乗って読まれている。
日本では多くのことがそうだし、世界的にもそういう例は多いように思う。
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