伊藤計劃、円成塔と同年デビューの樺山三英「ゴースト・オブ・ユートピア」
がやはりすごい。オーウェルの「1984年」スイフトの「ガリヴァー」ブラッ
ドベリの「華氏451」など主にディストピア小説を基に展開される物語だが、
パロディでも評論でもなく、それらをいわば景色とか、大きな情報として扱い
ながら本来のテーマと離れるわけでもない。こういう小説に接するのは初経験
だった。あえて近い作家を探せばレイモン・クノーかなと思う。それにしても
この世代は文学後進国の日本を一気に世界文学に追いつかせてしまった。
そのエンジンとなったのはやはりセカイ系といわれるアイデンティティの相違
だろう。セカイ系というとオタク人間という卑俗なとらえ方が一般的だが、確
かにこの言葉そのものは今のところ卑俗なものとしてしか流通していない。だ
が、それをいえば、セカイ系と対位するコンプレックスという言葉も同じよう
に卑俗なものとして扱われ、実際に卑俗な面が大きい。セカイ系には社会が存
在しないといわれるか、社会というものは家族、近所、職場や学校といった遠
近法で形成されるもので、確かにそれらとの関係はコンプレックスに根付くも
のだろう。セカイ系ではそうしたコンプレックス型の人間関係→社会が存在せず
いきなりセカイという広がりとの関係にエゴが対面する。それがオタク人間と
いえばそうではあるが、オタクそのものは発達障害とか、パラノイアとしてコ
ンプレックス型人間にもあり、むしろそれがコンプレックスと結びつくことで
社会問題となる。セカイ系ではそれがものの見方として自己を形成するので、
むしろ自己の存在性そのものが問題となり、「ゴースト・オブ・ユートピア」
でも円成塔作品でも希薄な私が問題となってしまう。円成作品では巧みに私小
説としてセカイとしてのエゴを定位置に設定することで、抒情性というか、
感情に近いものを導き出しているが、樺山作品ではキミという設定からボク
への問いかけとしてオーウェルやスウイフトを再現していく。彼ら70年代生
まれの作家たちは20世紀にマルケスなり、グラックなり、バラードなり、そ
して私もその一人だろうが、が予見しながら書いていたものをいとも当たり前
のこととして実現しているように思う。
記事の下に広告が表示される場合があります。この広告はexciteの広告枠で、当ブログとは無関係です。